昭和52年09月28日 朝の御理解



 御理解 第93節
 「氏子は神の守りをしておる者を神と心得て参詣する。守りが留守なら、参詣した氏子は、今日はお留守じゃと言おうが。神の前をあけておくことはできぬ。万事に行き届いた信心をせよ。常平生、心にかみしもを着けておれ。人には上下があるが、神には上下がない。人間はみな同じように神の氏子じゃによって、見下したり汚ながったりしてはならぬぞ。」

 正しく取次者に対する是は御理解です。人が取次助けられると言う事は、もう本当にこんなに微妙な事はない。是はお取次さして頂いてそれを思います。「あぁお参りをしてよかった」と例えば思う心が既におかげを受けるのです。「お参りをした今日はどうでも親先生にお目に掛りたい」と思うておったら御結界が空いておった。そこにまぁいうならがっかりする。その辺の所が大変まあ微妙な事です。まぁ是は毎日体験する事ですけれども、私がここに奉仕をする時間ではなくても。
 私が何かの用でここに座っておる。あぁ先生が居られたと。居られない時間に居ったからと喜ぶ。その喜ぶ心がおかげを受ける。そういう時にいつも思うのに、私はいつも神様に使われておるなあと思うんです。こんなに生身を持っとるから、ずうっと居るわけにはいかんのです。神の前を空けるなと仰っても、やっぱり空けておる時間もずいぶんあるわけですけれども、その辺の所のタイミングというか、もう実におかげを頂いてる。神様が素晴らしいタイミングを作って下さる。
 昨日はあの様に筑水連合会の信心研修でした。御祈念そして開会の辞それからもう早速、教会長の教話と言う事で。もうこんな事は初めてだったと思うのですけれども、教会長が話されるという話が前に出たんだそうですけれども、信徒会のほうで断るそうです。そこの先生の話を聞いたってまあ同じ事というわけじゃないでしょうか。ところがそういう話が出たら合楽の場合は皆が賛成したと言う事で、結局私の話を聞いて貰う様になり、しかも事実、その話を元にしてあの様な研修が繰り広げられた訳です。
 ですからどうしても昨日の会合に出る人達は私の話を聞いとって貰わなければいけん訳なんです。あんな事は初めてでしたね。お説教中教話中に私が失礼しますちゅうて立って、自分で血の気が引くのが分かる。あぁ言う事が時々私にはあるんです。それが説教台の前でですね。あんな事あぁ本当にもうそれこそ、私もびっくりしましたけどね。これはこのまましておるなら、これは倒れるかなというふうな感じがしましたからね、御無礼して退らせて頂いた。
 それでちょっと時間をおいて出て参りましたら、あのほとんどここ一杯の人が集まって、どの位でしたか。時間はほんの僅かでした。けれども結局私がお話をさせて貰う。そして一口お話をさせて頂いてから、退らせて頂いてこれからが本当の話だと言う所で私が立ちました。ゾロゾロとお参りになって、大体一杯になっとった。こう言う事なんかも後から御真会の時に皆とお話した事でしたけれども、本当にあの神様がおかげを頂かせずにはおかんという働きをやはり感ずるねと言う事でしたですね。
 微妙です。どう言う事かというと、結局私が神様に使われておると言う事になるのじゃないでしょうかね。御真会というか幹部の方達に一献差し上げねばならん。それで昨日、先生方が、連合会長先生と副会長先生でしょうかね。杷木の先生と秋月の先生がお見えになっておられましたが、それでちょっとご挨拶だけはしなければいけないから、出てそして一献終わっておる所へ「親先生に是非お目にかかりたいと言う初めての方がお参りになっとられます」と言うて呼びに来ましたもん。
 そしたらそれが何でもない方なんですよ。だからおかげで座っとったら、その次からお参りしてくる人達は、皆私が居らなければ困るという人達が参って来るんです。もう私もあそこに長く座っておくごともないし、ほんな十分位ちょっとお付き合いしただけでございましたけれども、あのその辺のタイミングというかね。これはもう日々それを感じます。かというと昨日のお話の中にも、竹内先生のお話を致しましたが。
 実は絶対居らなければならないはずのに四回も、しかも熊本から当時の、あの当時の椛目に参っておられます。これなんか神様がわざわざ会わせてござらんという感じですね。もう本当に頂きたいのかと、言う事を確かめられたような感じがします。今日こそは今日こそはと言って三回、とうとう四回目にようやく先生とお目に掛ったと、こうそういうまたは、それと反対の事もいわばあるわけです。
 そして愈々思わせて頂く事は、私が使われておると言う事でございます。そこでほんならお互いが御用にも立ちたい、お役にも立ちたい。それこそお役に立ちたい、立ちたいの願いをもって皆さんが信心をなさる。さあ記念祭ともなれば本当にああもしたい、こうもお役に立ちたい、御用に立ちたいといかに心が焦ってもですね。これは神様が使うて下さらなければ仕方のないことね。
 そこでなら皆さんが御祈念の中にも、お願いなさっておる事と思いますけれども、五つの願いの四番目から五番目の所「真のいわゆる御用にお使い頂きたい」と。これはお役に立ちたい立ちたいという一念が、どうぞ御用にお使い下さい。神願成就の事のために、その手にも足にもお使い下さい。これは教師信者を問わずであります。取次をさして貰う者、取次を受ける者皆この御用に、四番目の御用に立ちたいという一念、神様の大きな願いが成就する事のために、その手にも足にもならせて下さいという願い。
 そのためにはだからまずは先の一、二、三という五つの願いの一番、二番、三番がどうでも成就せなければならないと言う事になりますね。何と言うても「体の丈夫を願え」と体が基なりとおっしゃる。何事も体が基なのですから。まずは体の丈夫を本気で願わなければならない。次には、「信心は家庭に不和のなきが基」と仰るのですから、家庭に不和のなきが基である所の、基を愈々仕込ましてもらう願いを立てなければなりません。次には家繁盛であり、子孫繁盛である
 。家が繁盛し子孫が繁盛して行く様な基というのがなからなければ、本当のお役に使うて頂きたいというても、神様が使い様がない。いつも病人できつかきつかばっかり言うとっても、神様が今日は体で御用せよと言われても御用ができない。昨日一昨日でしたか、今日は善導寺の昌ちゃん夫婦が、何か御用があるならと言うて夫婦で見えた。ところが丁度左官さんの壁落としがあっとった。それでもう夫婦で真白気になってから一生懸命で御用頂きよんなさるですよとこういう。
 あぁそうねそりゃあんたあそこは、どうせ家洗いさん達が来るごとなっとったっちゃけんち、私は思いましたけれども、行ってみたらもう私の居間だけは、もう家洗いさんに洗って貰わんでもよかごと立派に綺麗になっとった。もうそれこそ夫婦で一生懸命でした。例えばお役に使うて頂きたいと言うても、なら昌一郎さんが何十年前の様に、例え助かったにしても、まぁだあんな病気でヘトヘトしよんなさったら、とても他の事なら出来るばってん、今日はそげな御用なら今日はでけんちと言う所じゃろうね。
 どんなに例えば壁の土を吸うても、もうそれこそ平気でいわば天井洗いをされた。丁度家洗いさんが家洗いの材料まで持って来てくれとった、何かそれを使うておかげを頂いた。あそこだけは、おかげで家洗いさんに頼まんで夫婦で御用が出来たと言う事なんです。そこにそういうお役に立ちたいというそこにね。なら健康でなかったら、神様が使うてやろうと思われても使われないです。さあ今度の記念祭には一億円が計上されとります。もうそのお金が段々殆ど使うてしまいよります。
 大した事ですよね。勿論一年前からこの屋根の銅板張りの所から始まってるんですけれども、だから、ああした大きなお金入りがありよることじゃから、どうでもお役に立ちたいと言うてもさあもう本当に余裕がなからにゃ、出来ることじゃないでしょうが。とてもとても借金負うちからじゃでけんもん。どうでも、いうならば家繁盛の土台、おかげが頂かなければいけません。
 今日どん、御用に立ちたいと思うけれども、昨日の話じゃないけれども、あんたとばっかりは合楽、合楽ばっかりと言ってと、家庭でそういう雰囲気では御用に立ちたいと思うても出来ません。何というても一家があげて信心になり、さあ移り変わりしてお役にでも立たせて貰おうという家庭が不和であったら、いうならばけんか口論して御用に出てくるわけにもいけません。それでは御用に不浄が付く。
 私が神様に本当に御用に使うていただきたいというお取次の御用の条件に私が足ろうておるから、微妙なまでに神様が例えば、なら昨日のお説教中に立たせてもらうと言った様な事の中にも神様が本当に私を使って下さる。一人でも多くの者に私の話を聞かせて、おかげを頂かせてやろうという、働きがあった事を思わずにはおられません。それで私が使われよい私にならなければならないと。
 そりゃ妙な格好してから汚れたごたるとが、お給仕ならお給仕の御用をさして下さいと言うたって、かえって御飯が美味しうなかごとなるならどんこんされん。これは私どもが神様にお給仕をしとるものですからね。ですから汚れたごたる顔で、手でもう一杯召し上がって下さいと言うたっちゃ神様がムーツとしなさるごたりゃ、どんこんされん。本当にやっぱりそうですよ。
 私が北京に居る時、隣は看護婦会でしたが、ちょいと今日は面白い電話が掛って来た。誰々さんから付添婦をやってくれと、電話が掛って来た。食欲の出るごたるとばやってくれと言うてから。けれども考えてみるとですたい。病人ですからね。妙なブーッとしたとが来るならかえって御飯のいけんごとなる。やっぱりこざっぱりとして、キリキリしたとでなからにゃいかんというわけでしょう。食欲の出るごたる美しい子をやってくれと言って、その聞いた事があるけれども、やはりそうです。
 神様が食欲の出なさるごたる、お給仕させて貰うと言うても、御用をさせて貰うと言うても、その様なまずは自分であらねばならんから、なら改まりもせにゃならん、研きもせにゃならんと言う事になりますね。同時にその基にお役に立ちたい、立ちたいという一念が燃えておらなければなりません。それには健康が必要家庭の円満が必要、いうなら家繁盛のおかげの頂けれる事が必要である。
 そしてお役に立ちたいのであり、御神願成就のための、いうならば神の手にも足にもならせて頂こうと言う様な条件が要ると言う事でございます。今日は勿論これはお道の教師に対する所の御理解でございますけれども、神の守をしておる者に対する御理解ですけれども、神様に御用に使うて頂きたいならば使って頂き良い私、それにまず必要なのは素直な心だと思いますね。
 ちょいとすまんがあればしてくれんの、いやちょいと今私はこげんとばしよりますからというごと言われたら、もうこれは絶対使おうごとないですね。これは人間でも。もう何を置いても「はい」と言う人でなからなければ、ちょいとと使われないです。ですから今日は、私はここはお道の教師、取次者が神様の御用に使われよいお前になれよと言う、いうならば御理解でしょうけれども。
 なら信奉者の皆さんがこの御理解を93節を頂きなさるならば、皆さんもやはりお役に立ちたい、又お役にどういう御用にでも立たせて頂けれるおかげも頂きたい。そんならその根本の所にまず素直心を作らなければならん。同時に本気で研きもせなけりゃならん、改まりもしておかなければならない。そしてこの五つの願いが成就する様な願いをそれこそ明けても暮れてもこういう願いが心の中に何時もある様な信心を頂きたいですね。
   どうぞ。